さくらももこが死んだ日

さくらももこの訃報をしったのは、ハワイの高級ホテルでベッドに腰を下ろした時だった。

もちろん自腹のセレブ旅行なんかじゃない。当時、私は手取り月収15万という小さな出版社から、手取り月収20万(交通費込み)という大きめの編集プロダクションへ転職したばかりだった。そこは海外向けのガイドブックを作る会社で、私は入社早々、ハワイへ取材旅行に飛ばされた。ハワイのプルメリアよりも強くブラック企業の香りがしていたことは言うまでもない。

とにかく私は人生初ハワイ、初海外取材で、十数時間のフライトを終えたばかりだったのだ。疲れた体で「さーて日本は今頃どうしてるかな」なんて軽い気持ちでネットニュースをみた私は、「さくらももこ死去」という文字を目にした。人生ではじめて呼吸とか時間が止まったのを感じた。いや実際には最終面接までいった企業においのりメールをもらった東京のどこかの駅でも呼吸と時間は止まったのだけど、とにかく、私はさくらももこが亡くなったことを知ったあの瞬間を、生涯忘れないと思う。少なくともあれからすでに5年近くたった年の瀬の今日この瞬間も、空っぽになったあの瞬間を覚えている。

これは久々に実家に帰り、さくらももこのエッセイを片っ端から読み返している私の感傷と、彼女への敬愛に促されていつしか編集の道を歩み出した今日までの軌跡を、ただしたためただけの文章だ。

 

「出版関係の仕事をしています」などと聞くと、きっと東京の有名私大でも出てマスコミ関係のゼミで斜に構えた文系の男女としゃらくせえ青春やら性春やらを謳歌した末に、同じく斜に構えたインテリ風のメガネかけた編集長とかの前で「文学で世界を変えたい」とか曖昧な志を恥ずかしげもなくほざいて内定を勝ち取り、ちょっとばかし本が好きだっただけのくせに今や有名編集者気取りで偉い作家さんに的外れな赤字を入れて手取り月収30万くらいもらっていると皆さんご想像だろう。

私もそう思っていた。でも現実はそう甘くないのだ。手取りの話は前述したので、ここは過去のつまらない身の上話をさせてもらう。正直手取りの話は、何度してもしたりないくらい低かったので、もしかしたら後述するかもしれないが。

まず、うちは決して裕福でもなければ家族仲もよくない。私自身ひりひりするような文学性も持ち合わせておらず、特筆すべき点があるとすれば、人よりちょっとおもしろい話をするのが得意な田舎もんである。裕福じゃないので海外旅行になんて行ったことがないし、夏休みの旅行は家から車で一時間ばかし行ったところにある、父の勤め先の保養所だった。小中高とずっと公立で過ごし、当日太っていた私は、友人らのように今思えばさほどイケてもない男たちと青春を満喫する機会もなかった。仲がよろしくない割に変に厳しい家なので、友人たちと旅行へ行くなんてもってのほかだった。門限は小学生から高校を卒業するまで六時を超えたことはない。

つまり自宅から半径1キロ以内が生息範囲だったつまらない女なのだが、そんな私に世界の扉を開いてくれたのは、さくらももこだった。

 

父親の趣味でうちにはエッセイ本が多々あった。家からあまり出してもらえない私が、本棚にあるそれらのエッセイに手を伸ばしたのは自然なことだった。最初に読んだのがどのタイトルかは忘れたが、さくらももこはとにかく鮮烈だった。

当時の子供らしく「ちびまる子ちゃん」も嗜んではいたが、彼女のエッセイはそれを軽く上回るおもしろさだった。彼女の目を通してみる日常は、私のそれと変わらないのに、明らかに何かが違った。売れっ子漫画家の大先生なのに、それを少しも気取らせない軽い文体も好きだった。

などと言うのは大人になった今だから思うことであって、小学生かそこいらだった私は、さくらももこの「家族の前でおならをしない家族がいることに驚いた話」だとか「姉が不思議ものにハマっており、謎の植物から作られた万能油を分けてもらったところ非常に健康に効いた話」だとか、そういう馬鹿話が好きで好きでたまらなかった。一文読むごとに笑っていた。面白すぎて父の車の助手席でも、風呂でも、トイレでも、夜寝る直前まで繰り返し読んでいた。この面白さをどうにか伝えようと父にある一節を読み聞かせた際、たまたま「セックスを控えるように言われた夫婦」というくだりが出てきて、子供ながらに気まずくなったことも覚えている。父はあの時どういう気持ちだったのか、たまに聞いてみたくなる。

さくらももこの書いた本は全部読みたくて、本屋でちまちま親に買ってもらったり、図書館で借りてきたりした。次第に、エッセイの内容は彼女が取材旅行へ行った際の話になっていった。彼女の経験した世界は、とんでもなかった。

どのエピソードもかなり好きだが、どこかの出版社の不思議好き編集が崇拝している教祖のような人物にアメリカまで会いに行ったところ、そいつの家のポストと陽気なアシスタントとが、どちらも手作り風のピラミッドを頭に乗せており、明らかにインチキ霊能者だったという話は死ぬほど好きだ。あと、さくらももこがインド人の物売りに囲まれて憤慨した話もなぜか記憶に残っている。岡本さんという宝石商と一緒にアフリカだかエチオピアだか、とにかく暑いところへいって、現地の人にまじってひたすら宝石を採掘したというのも面白い。だけど一番好きな本は「あこがれの魔法使い」だ。一冊を通して、さくらももこが学生時代に恋した海外の絵本作家に会いにいくまでの日々が描かれている。さくらももこのカバーイラストがどこからインスピレーションを受けているかを感じるエッセイなので、未読の人はぜひ読んでみてほしい。

ご覧の通り、さくらももこ絡みのエピソードはかなり鮮明に覚えている。いつか同じくらいさくらももこが好きな人と、お気に入りのエッセイや漫画の回について酒でも飲みながら語り合うのも楽しかろう。だが今のところ、さくらももこ単体に熱い想いを抱いている人とは出会えていない。2024年に期待しよう。

 

さくらももこを敬愛する女の自然な思考として、ありきたりに漫画家を目指していた時期もある。しかし絵の練習は楽しかったが、首から下を描けないのと、男の子を描くのが難しくて断念した。その後、彼女のように文章で生きていこうと無謀なことを思い立ち小説を書いたりしたのだが、それも冒頭数行は書けるが物語が一向に進展しないことに気づいて諦めた。人間諦めが肝心だ。かつての私が間違っても進学や就職を諦めて自分の才能を研鑽しようとか思わなくてよかった。それでもさくらももこに憧れる気持ちが捨てきれず、不可能かもと思いつつ選んだ道が「編集者」だった。

普通に考えればさくらももこに憧れる=漫画編集になればいいのだが、漫画家になる難しさを身をもって知っていた私は、その漫画に口出しする仕事なんて絶対無理だと思っていた。どちらかというと彼女のエッセイに惹かれていたこともあり、いつかさくらももこのようにとんでもない場所へ取材へ行きたいという期待をこめて、雑誌やガイド系の道へ進むことにした。

しかし「進むことにした」といって進めるなら苦労はしない。むしろ漫画家になる方が「今日から漫画で食っていくから」と宣言すれば漫画家認定されるという意味で、道は易しい(金になるかはさておき)。

金がないので東京の私立なんかにはとてもいけず、田舎の公立大学を出て、職に直結しない分野で修士号まで取得した私は、編集者になるのがいかに厳しい道であるかをこの時わからされた。

正直、「へえ、私なんて平々凡々の田舎っぺですので」なんて殊勝なことを書いておきながら、きっとそこいらの若者の例に漏れず、「そうは言っても本当は特別な人間かも……」などとうっすら期待していた。しかし相手に公言もしなければ、自分にすらそんなことは言わない。謙虚というより卑屈である。万が一特別な人間じゃなかった場合を考えて、自分に対してすら保険をかけていたのだ。

だから「特別じゃないからきっと編集者なんて無理だってわかってるけど一応ね」と言い訳しつつ出版社(しかも名の知れたところ)一択で就活をしていた私は地獄を見た。もう片っ端からお祈りメールなのである。ESはそれっぽいことを書けばいいが、面接に入るとボロが出る。「それで君はうちに入って何がしたいの?」くらいは準備してるから答えられる。しかし「最近電子が主流になってるなかで、ガイドはどう売り上げを伸ばしていく?」やら「旅にまつわるものが作りたいって言うけど、それってうちの媒体の方向性にあってなくない?」やら「で、うちの本はどこまで読んでますか?」とか聞かれるともうダメなのだ。面接官のツッコミが鋭すぎてちょっと泣いたこともある。逆にしどろもどろの私に面接官が優しくてちょっと泣いたこともある。

結局、春の採用試験は全落ちした。恥ずかしくて悔しくて、高校時代からの親友(系統は違うがマスコミ系に進んでいた)と連絡が取れなくなった。

しかし幸いなことに、他業種で一社だけ受けていた会社から、奇跡的に内定をもらえていた。私は悩んだ。

もう出版じゃなくてもいいじゃん。編集者縛りで採用を受け続けるのは自分のくだらないプライドのためで、今更引っ込みがつかないだけじゃん。

まったくもって真っ当な心の声だった。院卒だったのですでに25歳くらいだった私は、それなりに分別もついていた。ここで就職浪人してもう一度出版を目指すのがどれほどリスキーかくらいわかっていた。

でも、ありきたりすぎて書くのも恥ずかしいが、私はこの時さくらももこのことを思い出したのだ。そして思った。今諦めたら、私は一生彼女に会うことができない。

 

自分が出版業界を目指す理由の一つが、「さくらももこに会いたいから」だったことにまず驚いた。でもその夢みがちにもほどがある夢は、まだ青臭さが抜けない当時の私の背中を押すには十分な熱量だった。私は唯一もらえた内定をけって、地元の出版社にアルバイトで採用された。

それから2018年ーーつまりさくらももこの訃報を知るまでの数年間は、あの時の自分の選択を何度も後悔するのに十分な苦しさだった。まず給料が低い。だから一人暮らしができなくて会社まで片道1.5時間も電車に揺られなければならない。出版社のつねで帰宅は深夜を超える。なのに給料が低い!同級生に旅行に誘われて、お金がないからドタキャンした虚しさ、最低さったらない。それでも自分に才能があればまだいいが、どれだけやっても「私には何か特別なところがある」なんて思えない。企画を練らされても平凡なものしか思いつかず、知識量でも人に及ばず、ものすごく酒が飲めて社交的なわけでも、周りよりたくさんの本を読んでるわけでもない。あの頃は毎日苦しかった。本当に苦しくてみじめで、自分がすがりついている「少なくとも出版業界にいる」という肩書きすら誇らしくもなんともなかった。親からも幾度となく給料の低さと勤務時間の長さを嘆かれた。院まで行った奨学金は重く肩にのしかかっていた。

それでも私を引っ張り上げてくれたのは、さくらももこだった。

目を瞑りながらでも歩いたこの道の先に、彼女がいるはずだと言い聞かせた。

しかし地元の出版社でうじうじやっていても、さくらももこに会えないことは明白だった。私は一念発起して、東京の編プロに転職した。そこは国内外のガイドブックを作らせてくれるところだったので、まさにさくらももこの「富士山」みたいな本が作れるんじゃないかと思った。

内定が出たとき、私の頭に浮かんでいたのは、上述した「あこがれの魔法使い」という本だった。さくらももこが憧れたエロール・ル・カインに会いにいくように、私もいつかさくらももこに会いにいけたら。

入社からとんとん拍子で、私の海外出張が決まった。心のなかでは、ほとんどさくらももこに会えたようなものだった。

そして私は、ハワイのベッドの上で彼女の訃報を知ったのだった。

 

私はこれから同じ部屋に寝泊まりすることになるカメラマンの女性に、「さくらももこが亡くなったそうです」と言った。私の事情などもちろん知らない彼女は「えっそうなんだ。まだ若いよね」とかなんとか言ったと思う。話はそこで終わった。あまりにも現実味がなくて、その後、私は案外普通に取材をこなせた。

そして帰国して、久々に寝転んだ日本のベッドの上で、少しだけ泣いた覚えがある。余談だがその年の誕生日に胃腸炎にかかった私は、二十代後半というかなりいい年のくせして大の方をパンツにもらした。その時もさくらももこのことをふと思い出した。

 

でも、それくらいなのだ。自分でも不思議なくらいさくらももこを敬愛して、いつか会いたいと願って、会えると確信していた「あこがれの魔法使い」がこの世を去ったのに、雷が落ちて会社を辞めることもなければ、彼女の墓を探し当てようと日本全国旅をすることも、さくらももこが訪れた国々を放浪することもなかった。

少し寂しく薄情に思うくらい、私はただ淡々と、ブラック企業が与える莫大な量の仕事を、日々増えていく体重にげんなりしながら、同僚と愚痴をいいつつこなし続けた。この先に何があるかもわからなければ、必要以上にわくわくすることもなく、それなりに満足のいくようないかないような本を作り続ける毎日だ。

向上心みたいなものは、あまりなかった。金がなかったから向上してるどころじゃなかったのもある。向上心と金の欠乏、それに反比例する体重の上昇で、女であることがどうでもよくなった私は、ついに化粧をすることすらやめた。スキンケアもやめた。会社の先輩が新しいiphoneを買ったとかで、ポートレートモードで私の写真を撮ってくれたのだが、笑い出したくなるほどブサイクだった。大学の頃から着ているぺらっぺらのセーターに、70kg近くまで増えた脂肪を押し込んで、顎と鼻周りにできたニキビやら赤みやらを一切隠そうとせずニタァと笑っている女が、やけに高画質でこちらを見ているのだから笑わずにはいられないだろう。私が先輩だったら絶対に吹き出すが、優しい人だったので「な?めっちゃ画質ええやろ」とだけ言って被写体への言及はなかった。

 

終わりどころを決めずに書いてきて、いよいよ蛇足感がすごいのでそろそろ話を切り上げたい。

時はコロナ禍。私はいよいよ転職を考えた。旅行ガイドなんてスマートフォンができた段階でお先真っ暗だったのに、コロナなんてきたもんじゃ商売上がったりも甚だしかったのだ。絶対に会社は倒産すると思っていた。それは自分についてもだった。数年前に転職してから、自分が少しでも成長したとは思えなかった。

他業種へ行くという可能性は今度こそ魅力的に目の前にちらついた。それでも、さくらももこのエッセイや漫画、「富士山」は、小学生のあの頃から東京の狭いマンションにまで、未練がましくずっとずっとついてきた。あこがれの魔法使いはもういないけれど、さくらももこの本と一緒に成長し、気づけば曲がりなりにも出版業界にもぐり込んだ自分の根性を、ここで捨てることはできなかった。私は紆余曲折をへて、今は漫画の編集なんてさせてもらっている。あと、痩せた。これはかなり嬉しい変化だ。

 

そして今日、昨年末ぶりに帰ってきた変に厳しく懐かしい実家で、私は数冊残してきたさくらももこのエッセイを読み直した。面白いくらい一字一句覚えていて、読書というよりテスト前の復習みたいだったし、それゆえに抱腹絶倒はしなかった。でもさくらももこはずっと私のあこがれの魔法使いだった。大袈裟に聞こえるかもしれないが、彼女が私を今日この瞬間まで導いてくれた。

 

私はまだ何者にもなれていないし、漫画編集の仕事は面白い分だけ難しいことだらけで、このままでは仮にさくらももこが生きていても一緒に仕事できる日は遠すぎるほど遠いと思う。

だけど、私は自分の進路に迷った時、何度でもあなたを思い出す。いつか両親が死んで実家に帰った時も、本棚で手垢のついたエッセイを取り出す。どこかへ旅をする時は、一番お気に入りの数冊をスーツケースに忍ばせる。

私はこれからも、あなたとあなたの作品に生かされる。

 

さくらももこ先生、素晴らしい作品を生み出してくれてありがとうございました。2018年の訃報を聞いてから、今日ようやく心から言えます。ご冥福をお祈りします、いつかまた会う日まで。